2001年に書いたギターエッセイ(第1部中学時代~ギターとの出会い)からしばらく時間が空いて2004年にようやく第2部を書き上げました。第3部のクラシックギターと出会うエッセイは2025年現在まだ書いておりません・・・・。
12-04.07.16. Fridayイアン・ペイス
中学時代ビートルズ一辺倒だった僕は,念願のエレキギターを手に入れるとビートルズではなくハードロックにのめり込んでいった。確か中学3年生の時に「ビートルズが使っているギターはフォークギターではない!エレキギターなんだ!」と2年越しの勘違いを訂正して、やっと友達から借りてエレキギターを手にしたわけだが,ビートルズのバンド譜を購入しても楽譜に書いてあるのはコードネームとカッティングパターンだけ。「これではフォークギター専門誌のGUTS(ガッツ)となんら変わらないではないか!エレキはやはりギターソロだ!」などといって相変わらずガッツに添付していた楽譜をもとにチャーの「闘牛士」や「気絶するほど悩ましい」のイントロや間奏を弾いていた。しかし,たかがフォーク雑誌の曲集に申し訳程度に載っている小さな音符を読んで弾いていたなんちゃってギターソロなのだから,きっとそれは気絶するほどへたっぴいだったのであろう。
そんな僕に救世主が現れた!というか見つけた!それはエレキの雑誌「ヤングギター」である。こんなすばらしい雑誌があったのか!この雑誌にはチョーキング,ハマリング,プリング等のエレキのテクニックが解説がしてあり,まさに目から鱗が落ちまくった。確か初めて買ったヤングギターに掲載されていた完全コピー譜はイーグルスの「ホテルカリフォルニア」だったと思う。だから僕が初めてまともにコピーした記念すべきギターソロは「ホテルカリフォルニア」だったのだ。
ほどなくそのヤングギターはエレキ初心者向けに別冊を出していて,初心者にエレキの手ほどきをし,しかも添付楽譜はYGバックナンバーで取り上げた完コピ曲がてんこ盛り,というお得な別冊だった。確か「ロックギター講座」というタイトルだったと思う。すぐに,これが僕のバイブルとなった。収録曲は「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「スキャッターブレイン」「愛しのレイラ」「哀愁のヨーロッパ」「キラークイーン」「スピニング・トー・ホールド」などであったと思う。もちろんそれらすべての録音を入手。それを聴き,タブ譜と見比べながらほとんど全曲コピーした。その中でも僕の好みにぴったり合ったのがリッチー・ブラックモアの演奏だった。スモーク・オン・ザ・ウォーターのリフは今でも“あやや”がCMで歌うなど,ロックに興味のない人でも聴いたことがある有名リフだ。すなわち「スモーク・オン・ザ・ウォーター」は“格好良い”,“覚えやすい”,しかも弾くと“簡単”という三拍子そろった曲なのである(ぬぬっ、クラシックギターのレパートリーにもこの三拍子がそろった曲があるような気がするゾ・・・笑)。
すかさずリッチー・フリークになった僕はディープ・パープルのLPを買いそろえていった。「マシン・ヘッド」を皮切りに,「イン・ロック」「紫の炎」「ライブ・イン・ジャパン」「ストームブリンガー」「メイド・イン・ヨーロッパ」と続けた後はレインボーのLPを買いそろえていった。このリストを読んで「ファイヤーボール」がないじゃないか!とお怒りの貴兄もいるだろう。はて,何で買わなかったのだろうか?たぶんこのLPでもっとも有名なタイトルチューンの「ファイヤーボール」を僕はシングル盤(ドーナツ盤という名称を知らない若者が今はいるらしい)で持っていたから,もういいや,と思ったのかも知れない。でもLPの方はきっと誰かに借りたのだろう。テープで持っていたからである。
ちなみにこの「ファイヤーボール」という曲はイアン・ペイスのドラムが超絶テクニックなので有名な曲だ。知り合いのドラマーが,世界で一番難しいドラムの曲は「ファイヤーボール」とお化けのQ太郎のイントロだと言っていた。確かにドラマーでない僕にもファイヤーボールのイアン・ペイスはなにか凄いことをやっていると感じることができた。特にバスドラムの連打!「コージー・パウエルがダブル・バスドラムでやることをイアンはワンバスでやってしまう!」といって僕らロック仲間の間ではイアン・ペイス最強ドラマー説が流れていた(それじゃあアルハンブラの思い出をpiだけで弾けたらそいつは最強のクラシックギタリストなのか?というとそれは断じてそうではない・・・多分)。
しかし僕が長年信じてきたイアン・ペイス最強伝説が音を立てて崩れたのは,時は流れてこれから数十年後ボリビアのラパス国立音楽院の任期を終えて,日本に帰国2日後のことだった。「いやあ,10年ぶりの日本だ,懐かしい,懐かしい」と言って,僕が最初に連絡を取った友人はなんと高校時代に一緒にバンドを組んでいたボーカルのT君だった。ここだけの話であるが、ボリビアでの教授・演奏活動に精も根もつぎ込んで抜け殻となっていた僕は,日本ではクラシックをせずにロックに打ち込もうと思っていた(打ち込むと行ってもMIDIデータを作成しようと思っていたわけではない)。そして、そう心に誓っていた僕は日本に帰国したその日にお茶の水の楽器店に直行してエレキギターを購入。(余談だがこの時購入したエレキが現代ギター2003年10月号のグラビアで福田進一さんと一緒に写っている写真で弾いている楽器である)。そしてその次の日にバンド再結成のために昔のメンバーと連絡を取ったというわけである。結局現在はクラシックギタリストに収まっているわけだが、その辺の流れについてはまた別の機会にまわすこととして,イアン・ペイスの話であった。数十年ぶりに昔のロック仲間と「やっぱ,最強のドラムといえば,ファイアー・ボールのイアン・ペイスとオバQのドラマーだべ」などと昔と変わらぬ話題で盛り上がろうとすると,Tが言った。「あ,あれツー・バスなんだぜ。今は手に入るブートレッグ映像でファイアーボールのライブ映像があるんだよ。で、この曲に入る前にイアン・ギランがアナウンスするんだよね。おっと,この曲ではドラムのセッティングが変わるから,ちょっと待ってくれ,バスドラもう一つ着けるから・・・て」伝説が音を立てて崩れていった瞬間であった。
13-04.07.23. Friday ホワイトスネイク
前回はイアン・ペイスの話で脱線してしまったが、ディープ・パープルのLPを高校入学時にはほとんど揃えてしまっていたという話であった。ちなみに前回話題に出なかったアルバム「紫の肖像」であるが、これも食指が動かず購入したのは大学在学中であった。購入したのは高田馬場の中古レコード屋。何故かどこの中古レコード屋でも「紫の肖像」と第4期の「カム・テイスト・ザ・バンド」だけは何枚も置いてあった(笑)。リッチーフリークの僕が次に進むべきバンドはもちろん「リッチー・ブラックモアズ・レインボウ」であった。そのころレインボウのLPはまだ「バビロンの城門」までしか進んでおらず、これも買い揃えるのにさほど時間がかからなかった。リッチーをすべて制覇してしまった僕はさらなるギターヒーローを捜していた。ジェフ・ベックやジミー・ペイジもかなり聴きまくったが、コピーして自分の血肉となるまではいかなかった。彼らはアイデアやサウンドが独創的なので、曲ごとにプレイが一変してギターキッズにはつかみ所がないのである。あとデビューして2作目を出していたヴァンヘイレンのプレイは正直手が出なかった。当時はプロのギタープレイヤー、バウワウの山本恭二などがヴァンヘイレンをコピーして得意がっていたのだから、エレキ始めたての高校生の手が出るレベルではなかったのであろう。やはりハードロックの王道というサウンドを持つパープルから離れられなかった僕はパープル&レインボウ・ファミリーに活路を見いだしていくことになる。
そこでトミー・ボーリンのソロ・アルバムを聴いた。「うーん、これはハードロックではないな~」というのが当時の感想(その後聴いているうちにかなり好きになったが)。そんな中、かなり熱くなったのがホワイトスネイクの存在である。第3期のお気に入りヴォーカリスト、デヴィッド・カヴァーディル(当時は太っていたのでデブカバと呼ばれていた)がパープル脱退後に始めたユニットである。最初はデヴィカバのソロ・ユニット的色合いのバンドであったのだが、パープルのキーボードプレイヤー、ジョン・ロードが加入したというので、ホワスネに対する僕の興味は急上昇した。「ホワスネもホワスネなく(お忘れなく)」とは当時の友人とよく言っていたジョークである。しかしジョン・ロードが加入してリリースされたアルバム「トラブル」は、楽曲がリズム&ブルースでハードロック色が薄いこともあり僕の愛聴盤とまではいかなかった。しかし、しかしである!FMで放送されたホワイトスネイクのライブでは第3期パープルの代表曲「マイト・ジャスト・テイク・ユア・ライフ」とか「ミストリーテッド」をやっているではないか!しかも第3期パープル在籍時にスクリーミング(いわゆるシャウト)はグレン・ヒューズに任せていたデヴィカバがハイトーンをがんがん披露しているではないか!消えかかっていたホワスネへの興味が再燃した。しかもこの頃すかさずホワイトスネイク初来日公演の情報が飛び込んできた!これはチケットを買わないわけにはいかないと、すぐさま購入した。外タレのコンサートなど行ったことがなかった僕は、プレイガイドなどを訪ねるのも初めてのことであった。そんな不慣れな状況で購入に出遅れ、購入したのは発売当日とはいかなかったはずだが、そんなに悪い席ではなかった(はずである・・・武道館だったのであろうか、さだかではない)。しかもチケット購入後に飛び込んできた情報は僕を小躍りさせた!!当時僕が世界最強のドラマーと信じていたイアン・ペイスがホワイトスネイクに加入したというのである。「うぉー、これはもうパープルだぁ!」と僕は熱狂した。しかし喜んだのもつかの間・・・・・ホワイトスネイクの来日は中止になった。チケットの売れ行きが悪かったからしい。ここでまた僕のホワスネへの熱は休息に冷めてしまったのであった。(次のホワスネ来日時にはちゃんとウドーさんが無事招聘してくれて僕も生ホワスネを聴くことができました)
そんな僕のフラストレーションを解消してくれるギターヒーローが現れた。それはゲイリー・ムーアであった・・・。
14-04.08.2. Monday グラハム・ボネット
グラハム・ボネットが好きである。
レインボウ(僕が聞き始めた頃はまだリッチー・ブラックモアズ・レインボウという名のバンドだった)の歴代ボーカリストの中で最初に名前が挙げられるのはロニー・ジェイムス・ディオであることに異論はない。名曲「スターゲイザー」や「バビロンの城門」などはディオのヴォーカル無くしては存在さえしなかったであろう。でも僕はレインボウ歴代ボーカリストの中でグラハムをフェイヴァリット・ヴォーカリストとして挙げてしまう。(もともとマイナーなアルバムやミュージシャンを好む方ではあるが・・・。僕の愛聴盤は第4期ディープパープルの「カム・テイスト・ザ・バンド」だったし、パープルで一番好きなボーカルはグレン・ヒューズだった)
丁度僕がロックに興味を持ってロッキングオンやミュージックライフを読むようになったのは高1の頃だった。そんな中ミュージックライフでよく出ていた記事が「レインボウ、今月のメンバーチェンジ!」とかいうもので、冗談っぽく書いてあったのだが、それぐらいこの時期のレインボウは新メンバー加入→脱退を繰り返していた。そんな中、なんとレインボウの看板ボーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオが脱退してしまったというのである。やっと高校生になって、ロックのコンサートも聴きに行こう!レインボウが来日したら絶対聴きに行ってやる!リッチーのプレイを穴が空くほど見てやる!と思っていたのに、あわやレインボウ解散の危機だったのだ。しかしそこはリッチー御大、グラハム・ボネットという新人を発掘してきた。ミュージックライフに出た写真を見るとなんとビックリ!グラハム・ボネットはリーゼントにスーツ姿、ジェームス・ディーン張りの色男だった!レインボウ以前には全く、ハードロックなど歌ったこともなかったグラハムを起用してしまうというリッチーの眼力には脱帽してしまう。
さて新ボーカリストを迎えて、発表された「ダウン・トゥ・アース」は賛否両論を巻き起こした。しかし遅れてロックファンになった僕はパープル、レインボウのアルバムはほとんどリリースから何年も経った頃に聴いていた。「ダウン・トゥー・アース」が初めてリリースを心待ちにして、お金を貯めて、発売日に買ったLPだったのである。そんな僕にとって周りの下馬評など関係ない。ロスト・イン・ハリウッド、アイズ・オブ・ザ・ワールド、シンス・ユー・ビーン・ゴーンはすかさず僕のお気に入りナンバーのベスト3となった(余談だが昨年サックスの大城正司さんと出演したコンサートの楽屋で僕が指ならしにシンス・ユー・ビーン・ゴーンのリフを弾いていたら司会の女性タレントさんが合わせて歌ってくれたのには感動した!っていうかクラシックギタリストが指ならしにレインボウを弾いてていいのか!)。 そんな中!キターーー!レインボウが来日する!もちろん武道館のチケットを購入した。初武道館である!初ロックコンサートである!初リッチー、初コージーである~!!!ホルストの惑星からアイズ・オブ・ザ・ワールドへとつながるオープニング。これだ、これこそハードロックの様式美だぁ~!リッチーの長ーいギター・ソロ、この頃からベートーベンの第九を使用していた。あとバッハのブランデンブルグ協奏曲3番三楽章のさわりも弾いていた。ドン・エイリーもレインボウ参加をきっかけにハードロック・キーボード・プレーヤーの道を突き進んでいくことになるのであるが、この時はシンセを多用したソロプレイを行っていた(未知との遭遇とかやってたなあ・・・)、そしてコージーのチャイコフスキー1812年をバックに行うドラムソロ!!そうだったのだあ、僕とクラシック音楽との接点はこの頃はじまったのだぁ~。
さてそんな思い出深きレインボウ来日公演時のボーカリスト、グラハム・ボネットであるが、アルバム1枚残しただけであっさりレインボウを脱退してしまう。先にレインボウを脱退したコージー・パウエルが居なくなって寂しくて辞めてしまったらしい。レインボウを脱退したコージーはすかさずマイケル・シェンカー・グループに加入してMSG大ブレイクの立て役者となるのだが、このコージーが職を失っていたグラハムに声をかけグラハムもMSGに加入してしまった。しかし!しかしである。コージーはグラハムを呼んでおきながら、「ハロー、グラハム!あとはよろしく!」とばかりにMSGを脱退してしまう(この後コージーはホワイトスネイクに加入したのだと思うが、記憶が曖昧)。またもや友人に裏切られたグラハムはMSGで1枚アルバムを残しただけでほとんどツアーを行うこともなく失踪してしまうのである。
しばらくグラハムの情報は途絶えていて、役者に戻っただの、ポップシンガーとして復帰するだの噂程度しか届いてこなかった。しかしこの数年後にグラハムは復帰した。自身のバンド「アルカトラス」を引き連れて!今度は雇われボーカリストではない。自分がリーダーのグループだ。しかもギタリストはリッチー、マイケルに勝るとも劣らない超テク・ギタリスト、イングウェイ・マルムスティーンだった。
ハードロック様式美一辺倒だったレインボウに「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」などでポップの風を吹かせたグラハムであったが、なんと自身のリーダーアルバムではロニー・ディオも羨まんばかりの超弩級のハードロックを展開してしまった。しかし時代に逆行したおかげでアメリカ市場でアルカトラスは受け入れられなかった。それでもイングウェイの超絶ギタープレイは日本でも、アメリカでもギターキッズの注目の的となった。アルカトラスはグラハムの、というよりイングウェイのプレイが目玉のグループとなってしまったのである。そのイングウェイも2回目の来日公演直前に突然脱退。リッチー・ブラックモアを神とあがめるイングウェイはリッチーの気まぐれな性格までもコピーしてしまったようだ。「もうギターヒーローなんかいらない!」と喧嘩に負けた小学生のような発言をしてグラハムが急遽イングウェイの代役を頼んだのが今をときめくギターヒーローのスティーブ・ヴァイだったのだから笑える。ヴァイを迎えたアルカトラスのセカンドアルバムはヴァイの色濃いアルバムで、グラハムのカラーなど微塵も感じられなかった(僕は大好きだけど・・・)。で、ヴァイはアルカトラスでのプレイをきっかけとして、デイヴ・リー・ロス、ビリー・シーンとともにスーパーユニットを結成するのである。
こうしてコージー・パウエル、イングウェイ・マルムスティーン、スティーブ・ヴァイといったミュージシャンたちに踏みつけ、裏切られていなくなったグラハム・ボネット(本当はまだどこかで活動してるんだろうけど)に僕は哀愁を感じてしまうのだ。
15-04.09.09. Thursday ゲイリー・ムーア
「ホワイトスネイク」の項で書いたように、僕はリッチー・ブラックモアに続くギター・ヒーローを探していた。この時イングウェイ・マルムスティーンやスティーブ・ヴァイがデビューしていたら、迷うことなく彼らのフォロワーになっていたのだろうが、この時はさほど目立ったギターヒーローは現れていなかった。(マイケル・シェンカーがブレイクするのはMSGを結成して、レインボウ脱退後のコージー・パウエルをメンバーとして迎えてからだった)。
僕はメロディアスかつスピーディーなソロを披露してくれるギター・ヒーローを求めていた。しかし当時ハード・ロックは下火となっていて、巷にはギターヒーローを必要としないテクノ。ミュージックが氾濫していた。そんな中でギターキッズたちが目を向けたのがフュージョン・ミュージック(この頃このジャンルはクロスオーバーと呼ばれていた)であった。僕もご多分に漏れず、ラリー・カールトン、リー・リトナー、アル・ディ・メオラ、高中などを聴いて、コピーしたおぼえがある。確かに彼らジャズのミュージシャンたちは正確無比なテクニックを持つ。もしかしたら(というか実際に)リッチーよりテクニシャンなのであろう。しかしイマイチ彼らの音楽にのめり込めなかった理由がある。それは彼らの音楽が“生ぬるい”からなのである。彼らの音楽はギターを弾かない人たちにもイージー・リスニングとして聴きやすいものであった。喫茶店などでも客たちの会話のバックにうすーくかかっていた。しかしロックはもっと熱いものでなければならない!本や小説を読みながら聴けるような生ぬるい音楽であってはならないのである。
前回のエッセイでレインボウのアルバム「ダウン・トゥー・アース」について書いたが、このアルバムと同時進行でコージー・パウエルはドン・エイリーの全面協力を得てソロ・アルバムを制作していた。それがアルバム「オーバ・ザ・トップ」である。このアルバムで話題となったのはコージーがレインボウのライブで披露する、チャイコフスキーの「1812年」をバックに叩くドラムソロが初めて録音されたことである。当時このLPはドラマーのソロアルバムとしては未曾有のセールスを記録した(余談だが日本でコージー・パウエルに迫るドラマーといえば誰が居るのだろうか?昔サムュエル岡本さんというのがいたけど、今なにしてるのかなあ?一度ニュートンファミリーのツアーメンバーとして名前を見たことがあるけれど・・・)。このアルバムで僕のお目当てはマックス・ミドルトンがジェフ・ベックのために書いたという「ザ・ローナー」だった。コージーのドラムでベックがこの曲を弾いてくれれば、まさしく第2期ジェフ・ベック・グループの再現ではないか!しかし実際にはベックがこの曲の録音をキャンセルしたためにデイブ・クレムソンが弾いていた。しかしこの曲より僕が完全にノックアウトされたトラックがあった。ギターにゲイリー・ムーア、ベースにジャック・ブルースという布陣で録音されたナンバー「キラー」である(アイアン・メイデンのキラーズではないよ。キラーズには全然ノックアウトされなかったので、念のため)。こんなギター・プレイヤーがいたのか!とてつもない早弾き、ブルース色溢れる音色、泣きのギター・・・・僕の求めていたギターヒーローがそこにいた。
ゲイリー・ムーアの名はシン・リジーに加入した凄腕ギタリストという下馬評で耳にしていた。しかし実際の演奏を耳にすることはほとんどなかったのである。すかさず僕はゲイリー・ムーアのLPを探し回った。しかし、見つからない。この頃ゲイリー・ムーアの録音は国内盤ではほとんど発売されていなかったのだ。輸入レコード店でも見あたらない。ムーアのLPのほとんどはUK盤だったのである。やっとレコード店で見つけたゲイリー参加の国内LPはグレッグ・レイクのソロ・アルバムだった。オープニング・チューンの「ニュークリアー・アタック」はゲイリーの作品で、ロック色溢れる作品だったがさほど長いソロを弾いているわけではなかった。そしてこの曲以外はグレッグ・レイク色が強く、あまりゲイリーのギターはフューチャーされてはいなかった。「キラー」で聴かせてくれたようなテクニックの応酬を僕は期待していたのに・・・。
次に見つけて購入したのがゲイリー・ムーア、ソロ名義のアルバム「バック・オン・ザ・ストリート」。このアルバムも期待して購入した割にはあまり印象に残る作品はなかった。ただインスト・ナンバー「パリの散歩道」は気に入った。しかしこの曲はロックというよりはかなりジェフ・ベックを意識した、たとえて挙げれば第2期ジェフ・ベック・グループの「ディフィニットリー・メイビー」の路線にある作品だった。
そんな中、輸入レコード屋でも「コロシアムⅡ」のLPを見つけたときには小躍りした。ゲイリーがドン・エイリーらともに在籍したドラムのジョン・ハインズマン主催のインストルメンタル・グループである。チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーやジョン・マクラフリンのマハビシュヌ・オーケストラと同様の雰囲気を持ったグループだった。このLPではゲイリーのテクニックが炸裂している。アル・ディ・メオラばりの早弾きを軽々と弾いているのだ。僕はロック畑のギタリストがここまで聴かせてくれることに感動した。しかし何故ゲイリーは「キラー」やコロシアムⅡで聴かせてくれたテクニックの応酬をヴォーカル入りのロックナンバーで披露してくれないのか?ただ出し惜しみしているだけなのか?ゲイリーのギター・プレイに僕らは皆いらだっていた。
すっかり出し惜しみギタリストのレッテルを貼られてしまったゲイリー・ムーアであるが、その汚名を晴らしたのは「オーバー・ザ・トップ」から数年後のことである。そのLPのタイトルは「Gフォース」。実はこのアルバムはグレッグ・レイクのLPより早く1980年に発表されていたのであるが、僕らの手元には1年以上遅れて届いたのだ。というのもこのLPは国内盤はおろか、アメリカ輸入盤すらなかったので、入手困難を極めたからである。しかしこの音源をいち早く聴いた高崎晃らが「Gフォースは凄い!」と絶賛していたこともあって、僕らギターキッズは血眼になってこのLPを東京中の輸入レコード店を探し回ったのだった。やっとのことでGフォースをショップで見つけたときの感動、レコードプレイヤーに針を落としたときの期待感、聞き終えた後の充実感は今でも忘れない。ゲイリーはこのアルバムの評判がよかったにもかかわらず、録音1ヶ月後にGフォースを解散してしまったという。このグループでライブを行わなかったのもこのLPが日の目を見なかった理由であろう。この後ゲイリーはソロとしてゲイリー・ムーア・グループを結成する。このグループには元ホワイトスネイクのイアン・ペイス、ニール・マーレイ、さらに初来日時にはレインボウを脱退したドン・エイリーまでもが加入して、日本公演は大成功に終わった(日本で成功する手っ取り早い方法はメンバーにパープル&レインボウ・ファミリーを加入させることなのか・・・)。
このように紆余曲折を経て日本でメジャーな存在になったゲイリー。しかし今、冷静に彼のプレイを聴いてみると、リッチー・フォロワーだった僕が必死に追いかけるべきギタリストではなかったのかもしれない。もし僕がゲイリーのプレイに初めて接していたのが、彼の日本でのブレイク後であったならば、僕は彼のことをさほど追いかけなかったのかもしれない。というわけでゲイリー・ムーアというのは僕の中で特別な存在のギタリストなのである。
16-04.09.25.Saturday ジョン・サイクス
前回のエッセイで、出し惜しみギタリストとしてゲイリー・ムーアを紹介した。今回は彼と同様、なかなか僕の前に実体を現さなかった凄腕ギタリスト、ジョン・サイクスについて書きたい。
ジョン・サイクスの顔と名前はよく知っていた。当時よく購入していたロック雑誌「ミュージックライフ」のグラビアに美形バンドとして、タイガース・オブ・パンタンのメンバーの顔が載っていたからである。この頃の美形バンドといえば、ジャパン、デュラン・デュラン、ガールなどがあり、タイガース・オブ・パンタンも彼らと同じ穴の狢としてとらえていたため全く僕の興味を引かなかった。しかしテレビの音楽番組で一度タイガース・オブ・パンタンのビデオクリップが流れたことがあった。曲目はカバー曲「ラブ・ポーションNo.9」。んっ?このギタリストはもしかしてテクニシャンかもしれないぞ・・・とちょっとばかり僕のサイクスに対する評価はあがった。僕は少しでも興味を持つとそのギタリストに対しては貪欲に調べる。サイクスのプロフィールを読むとコロシアムⅡでのゲイリー・ムーアのプレイに感銘を受けてプロギタリストを目指す、とある。「なんだ!こいつもゲイリー・フォロワーなんだ。どうりでゲイリー・ムーア張りの早弾きをするわけだ。」と共感したものだ。ちなみにゲイリー・ムーアは自身をジェフ・ベック・フォロワーであると公言しており、たまにベックのにおいがぷんぷんと臭ってくるプレイをすることがある。ジェフ・ベック大好きの僕はそんなゲイリーのプレイにも共感していた。
さてサイクスであるが、友人に借りて聴いたタイガース・オブ・パンタンのLPが駄作だったために、僕の記憶からサイクスの名前は徐々に消えていった。その後ゲイリー・ムーアの経歴をなぞるかのごとく、サイクスはシン・リジーに加入したようだが、ゲイリーの項でも書いたが、僕はフィル・リノットの歌い方が好きでないため、ほとんどシン・リジーは聴く気がしない(ただの食わず嫌いかもしれないが・・・)。というわけでサイクス加入後の名盤と呼ばれるシン・リジー「サンダー&ライトニング」は未だに聴いたことがないのである。
そんなちょっと離れた存在だったサイクスを僕の方に引き寄せる事件が起こった。ジョン・サイクスがホワイト・スネイクに加入したのである!ホワイト・スネイクの項で書いたように僕のホワスネ歴は長い。不人気で公演中止となった幻の初来日公演チケットまで入手していたのである。初来日公演こそ中止となって聴けなかったが、それ以降の日本公演はすべて聴いていた。昔からのホワスネ・ファンが「あの頃は良かった」と懐かしむ初期最強メンバー(デヴィカバ、ジョン・ロード、イアン・ペイス、ニール・マーレイ、バーニー・マースデン、ミッキー・ムーディー)による本当の初来日公演はもちろん聴いた。この初来日公演大成功に気をよくした興行主はホワスネの次回日本公演を武道館で行った。この時はドラムが人気のコージー・パウエルに変わっていたこともあり武道館が満員になったと記憶している。この時コージーはレインボウ→MSGと渡り歩いた後にホワスネに参加したのであった。しかしコージーのドラミングはまさにハードロックそのものであり、僕は当時ホワスネを良質のR&Bバンドと認識していたので違和感を感じた。よく覚えていないのであるが、確かこの武道館公演ではバーニー・マースデンが抜けてメル・ギャレーが加入していたし、ニール・マーレイーの代わりにコリン・ホッジキンソンというベーシストが入っていたのも違和感を感じた理由だった。なにかちぐはぐだったのである。思えばこの頃はデヴィカバがホワスネの方向転換を模索していた時期で、その旗頭がコージーだったのだ。この路線変更に着いていけないメンバーはあっさりと首を切られるか、自分からバンドを脱退していった。そして真っ先にミッキー・ムーディーの首が切られると、その穴を埋めるために加入したのがジョン・サイクスだったのだ。彼のプレイは一気にホワスネを若返らせた。ミッキー・ムーディーに続いて年寄りのメル・ギャレー、ジョン・ロードが次々と脱退して、ホワイトスネイクは4人編成のスリムでタイトなロックバンドへとのイメチェンを完成させた。
丁度この頃日本のロックファンを熱狂の渦に巻き込んだイベントが開催された。西武球場で行われた未曾有のロックフェスティバル「スーパーロック84」である。参加アーティストは、アンヴィル、ボンジョビ、スコーピオンズ、MSGそして新編成ホワイトスネイクだった。今では信じられないかもしれないが、ボンジョビが前座なのである。僕はとてもじゃないけれども、真夏炎天下の西武球場で5グループ全部完聴できないと思って、前座2バンドは失礼させていただいた。西武球場前のそば屋でアイスコーヒーを飲んだいたのだ。あの頃は西武球場前になーーんにも店がなかった。コーヒーを飲めるのはおそば屋さんしかなかったのだ。ボンジョビは「夜明けのランナウェイ」という曲がヒットしてよくMTVで放送されていたのだが、作品タイトル同様ビデオクリップがとてもダサくてへヴィメタ・ファンからは総スカンを食らっていた。球場外で彼らの演奏が聞こえてきたがギタリストがエディ・ヴァンヘイレンの「暗闇の爆撃」を完コピして弾いていたなあ。アマチュアバンドみたいだなぁと感じたものだ。後で聴いた話だが、アンヴィルとボンジョビはこの時プロモーターからも虐げられていて、西武線に乗って会場入りしたらしい・・・。
閑話休題、ホワスネの話だった。このスーパーロック84開催直前にリリースされたアルバム「スライド・イット・イン」はコージー加入後、初の録音と言うことでコージーの重たいリズムが炸裂している。が、サイクス加入は録音には間に合わなかった。というわけでソロはメル・ギャレーが弾いているのであるが、これが物足りない(確か後にギターソロをサイクスがすべて差し替えてレコーディングしたはず)。サイクスがホワスネに加入した後の録音を聴いても、未だサイクスのプレイの実体は分からなかったわけである。しかしこの「スライド・イット・イン」という卑猥なタイトルを持つアルバムは名曲揃いで、「ギャンブラー」を聴いたときに僕は、やっと「ウォーキング・イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・ブルース」に取って代わるライブのオープニングチューンが現れたと思ったものだ。余談だが前回の武道館公演ではセットリストからライブのクライマックスとして演奏される「ミストリーテッド」が消えて、アルバム「セインツ・アンド・シナー」に収められていたブルースナンバー「クライング・イン・ザ・レイン」がそれに取って代わっていた。しかしこの曲で必要とされるドラマティックなロング・ギター・ソロはメル・ギャレーには荷が重すぎたようだ。スーパーロック84で初お目見えとなったサイクスをリード・ギタリストに据えたホワイトスネイクはそんな僕の希望をすべてかなえ、不満をすべて払拭してくれた。
オープニングナンバーは思った通り「ギャンブラー」だった。コージーのドラミングとサイクスのギターがかみ合い、なんとも格好良いショーの幕開けだった。昔からのナンバーもすべて彼らの手に掛かると良質のハードロックチューンへと変貌していた。もう中途半端なサウンドではない。さてやはりライブのクライマックスは「クライング・イン・ザ・レイン」だった。ここでサイクスはやってくれた。イントロとしてゲイリー・ムーアへのオマージュなのか、わざわざ赤いストラトに持ち替えて、ゲイリー張りの泣きのフレーズでギターソロを披露。ゲイリー・フォロワーであることを隠すどころか、それを誇りにさえ感じているようだ。曲の中間部ではコージー・パウエルのソロアルバムでムーアが弾いた「キラー」を彷彿とさせるようなギターソロを展開した。僕がゲイリーに求め続けてかなえられなかったことをサイクスが実行してくれたのだった。この日のトリをつとめたのはMSGかスコーピオンズのどちらかだったが、それを忘れてしまうほど、4人編成のホワスネの印象は強烈だった。
しかしスーパーロック84を体験しなかったロックファンは、サイクスのプレイを87年にリリースされた「ホワイトスネイク:サーペンスアルバム」まで待たなければならなかったのである。このアルバムのオープニングチューン「クライング・イン・ザ・レイン」(最録音!)でのサイクスのプレイはギターキッズたちをノックアウトしたが、その時はすでにサイクスはホワスネを脱退していたのである。本当に実態のつかめないギタリストだったのだ。僕はというと87年には完全にクラシックギタリストへと転向していたため、この名盤といわれるホワイトスネイクのアルバムは未聴なのである。よく考えれば僕はサイクスのプレイが入ったLP、CDは1枚も持っていないのであった!たった1回のライブで僕にこれだけの印象を与えてしまったギタリストがジョンサイクスなのである。
17-04.10.09.Saturday リッチー池田
まず最初に今回のエッセイはかなり私的なものとなることをお断りしておく。まあエッセイというもの自体が私的なものなのだが、それでもこれまではよく名前の知られたロックヒーローについて書いてきた。しかし今回は演奏CDもなく、ロック雑誌でもほとんど取り上げられたことのないグループについて書いてしまう。
そのグループの名はBLAZE(ブレイズ)。彼らの演奏を初めて聴いたのは僕が高校1年の時なので、1980年頃のことだ。高校の先輩(やはりエレキを弾き、リッチー・ブラックモア好き)が僕を渋谷のライブハウス『屋根裏』(今もあるのだろうか?)に連れていってくれたのである。その時メインアクトをつとめていたのがBLAZEだった。この頃僕はまだグラハム・ボネット在籍時のレインボウ武道館公演に行く前だったので、この時が僕の初ロックバンド生体験だったのだ。
それは衝撃的だった。イアン・ギランも真っ青のハイトーン・ボーカル。ジョン・ロードばりにハモンドをかき鳴らすキーボード。グレン・ヒューズのように器用にバックボーカルもこなすベーシスト。コージー・パウエルのようなパワーでツーバスを叩くドラマー(以前、エッセイで名前を挙げたサミュエル岡本である)。そしてなによりも僕がショックを受けたのはBLAZEのギタリストのプレイだった。彼はSHIGE(シゲ)と呼ばれていたが、本名は池田繁久という。しかし僕らは彼のことを親しみをこめてリッチー池田と呼んでいた。彼は毎回ライブ時にリッチー・ブラックモアのようにフェンダーストラトキャスターをそのままマーシャルアンプにつなぎ、華麗なテクニックをほんとうに目の前わずか数センチで見せてくれた。ブレイズのレパートリーはディープ・パープル、レインボウのカヴァーが半分とオリジナルが半分であった。カヴァーといっても、ただスタジオ版をコピーするのではなく、彼らのオリジナル・アレンジで聴かせてくれるのだ。例えばレインボウの「ダウン・トゥー・アース」がリリースされたばかりで、まだ我々がレインボウのライブバージョンを知らないときに、いかにもレインボウ本家がやりそうなアレンジで「アイズ・オブ・ザ・ワールド」や「ラブズ・ノー・フレンド」を聴かせてくれたのである。また「キル・ザ・キング」ではイントロを「オン・ステージ」バージョンで聴かせてくれたと思えば、次のライブではスタジオ盤バージョンで聴かせてくれたりと手が込んでいた。当時レインボウは「スターゲイザー」をセットリストに入れてなかったので、生「スターゲイザー」を聴けるブレイズのライブは貴重だった。それにBLAZEオリジナル曲の格好良いこと!「何故彼らはレコードデビューしないのか?」と僕らは真剣に悔しがったものだった。当時レコードデビューしていた和製ハードロック・バンドといえば、コンディショングリーン、BOWWOWぐらいしか思い当たらない。また、その後宮永英一(通称チビ、ex紫)率いるサンディエゴや、44マグナム、マリノといったグループがレコードデビューしていったが、それらを聴くといつも「BLAZEがデビューすればいいのに・・・」と思っていた。
その絶好調のBLAZEが何故かレコードデビューもすることなく、突然の休止宣言をしてしまう。確か僕が高校2年の時だったと思う。この休止活動を宣言した屋根裏のライブで、僕はその後一緒にバンド活動をするヴォーカリストTと出会っている。出会っていると言っても、会話したわけでもなく客の中でやけに目立った存在の奴がいるなとチェックをしていただけだった。しかし、後に僕が加入したバンドにTがいたのである。このバンド(MEDUSAメデューサ)は僕が初めて加入した記念すべきバンドだった(この時バンドにいたドラマーは後にサブラベルズというプロのグループのメンバーになる)。ボーカリストのTとは以降、高校・大学と長いつきあいが続くことになる。同じ学校というわけではないがいつも一緒に行動していた。彼の高校の学園祭にも僕は部外者なのに参加してしまった。彼とはその後同じ場所でバイトをしたり、青春時代の大部分を共有したのだった。
そのTとは僕がロックからクラシックに転向してからは、接点が薄れてきてあまり行動をともにしなくなった。しかし、Tは要所要所で現れては僕を励ましてくれる存在だった。僕がクラシックに転校後、コンクール優勝したとき(確かスペインギターだったと思う)にお祝いに飲みに連れていってくれたのもTだ。この時彼が僕を連れて回ったのがいわゆるロックパブだった。60年代70年代のロックが常にかかっているバーである。そして何軒か梯子した後に連れていってくれたのがブレイズのリッチー池田がマスターをしているバーだった。Tは「元太郎がクラシックで優勝しやがってよ~」といって池田さんと2人で祝ってくれたのである。池田さんのフェンダーストラトキャスターで「アルハンブラの想い出」を弾かされたのはその時の良い想い出だ。
その後時は過ぎ去り、南米でほぼ10年の教授・演奏活動を終えて帰国した僕が誰よりも先に連絡を取ったのが、やはりTだった。すでに結婚したTの家に僕が上がり込むと、Tは僕が日本にいなかった10年間にロック界で何が起きていたのかを教えてくれた。BLAZEの池田さんは日本人ロックアーティストによるディープ・パープル・トリビュート・アルバムでCDデビューしていた!アルバムの名は「Who do they think we are? 」というファンならニヤリとするタイトルだ。池田さんはこのアルバムで確か「Burn」と「Lay Down,Stay Down」を弾いている。ブレイズがこれらの曲をよく演奏していたのを懐かしみながら、聴かせてもらったものだ。この日は僕が長い南米生活から帰国したたった2日目だった。Tが池田さんに携帯で電話をして、僕に繋いでくれた。「あ!元太郎君!帰ってきたの?」と10年以上経つのにリッチー池田(さん)は僕のことを憶えていてくれて、励ましてくれた・・・。
帰国して7年経った現在、僕はクラシックギタリストとして演奏活動、教授活動に追われている。再び、Tらロック時代の友人とは疎遠になっている。しかし彼らは僕の人生の大切な時期には必ず現れてくれるだろう。
PS:“奇跡は起こった!”
ちょうどこのエッセイを書き終えた後に、もしやと思い、BLAZEのことをネットで検索してみた。なんと!ついに!ついに今年2004年8月にBLAZEがCDデビューしていたのである!僕が初めてBLAZEを聴いてから25年、とうとう彼らはやってくれた!ギターのSHIGEはもちろん、ドラムはあのサミュエル岡本が叩いている!エッセイで僕が「サミュエル岡本は今どこにいるのだろう?」などと書いていたら、なんとブレイズにいたのである。彼らのCDリリースは丁度僕が何を思ったかロック狂時代についてのエッセイを書き始めた時期と一致する。これは奇跡以外のなにものでもない。CD収録曲はすべて昔からのBLAZEオリジナル曲である。1曲目は名曲「FIRE」だ~!しかも、なんとBLAZEは公式サイトまで作っていた(http://www.blaze-kaen.com/top.html)。
BLAZEが復活した現在(いま)、僕がまたロック時代の友人たちと再会する日が近づいているのかもしれない。
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